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『少年忍者風のフジ丸』(しょうねんにんじゃかぜのフジまる)は、1964年6月7日から1965年8月31日にかけてNETテレビ(日本教育テレビ。現:テレビ朝日)系列で全65話が放送された東映動画製作のテレビアニメである。

少年忍者風のフジ丸

ジャンル時代劇、忍者アニメ原作白土三平(第28話までの表記)

経歴編集

1932年、東京府東多摩郡(後の杉並区)に出生。幼少時は画家をしていた父の活動により大阪の被差別部落朝鮮人部落など各地を転々とする。

1944年、私立練真中学校(旧制)に入学。直後に戦争が激化したため、長野県小県郡中塩田村(現上田市八木沢駅付近)に一家で疎開し、旧制長野県立上田中学(現長野県上田高等学校)に通う。この旧制中学にいた白土牛之助という軍人の苗字が、後にペンネームの由来となる[1][2]。特高警察の拷問の後遺症で脊椎カリエスを病んでいた父に代わり、山仕事や力仕事で家計を支える。1年ほど塩田で過ごした後、真田へ引越しさらにその後、西塩田に引越した。

1946年、東京に戻る。白土の弟・真は近くの被差別部落(東京都練馬区)に住んでいた荻原栄吉(後の部落解放同盟練馬支部長)と同級生で仲がよく、真は荻原の家業を手伝ったりもしたため、荻原は「『カムイ伝』など白土三平の漫画には練馬での体験が影響しているのかと思うことがある」と述べている[3]。

1947年頃に手塚治虫の作品を知る。のち、経済的理由により練真中学(旧制)を3年の途中で中退。父の知人の金野新一のアトリエで、山川惣治作の紙芝居の模写・彩色の仕事を手伝い始める。

1951年、金野の指導の下『ミスタートモチャン』という紙芝居を制作。当時はノボルというペンネームだった。以後数年間このシリーズの紙芝居を手がけた。

1955年、紙芝居仲間からの紹介をうけて東京都葛飾区金町に移り、仲間と共同生活を始め、紙芝居『カチグリかっちゃん』を描く。白土は遊びに来る近所の子供らから「イチ二の三チャン」という愛称で親しまれ、これが「三平」の名の元になる[4]。また、この時期、黒川 新というペンネームも使用している。この年共同生活者であった瀬川拓男が人形劇団「太郎座」を立ち上げ、白土も舞台背景の制作で参加。また加太こうじの紹介で機関紙に4コマ漫画の連載を行なう[5]。1956年、板橋に転居し、「太郎座」のメンバーの一人だった李春子(通名小林まゆみ)と結婚。このころ日本共産党への入党を希望し、1年間ボランティアで『アカハタ』を配達したが、入党は叶わなかった。

1957年、劇団の先輩だった少女漫画家の牧かずまに漫画を描くことを勧められ、牧のアシスタントをしながら漫画の技法を学ぶ。同年8月、実質的なデビュー作『こがらし剣士』を巴出版から刊行。しかし直後に出版社が倒産し、長井勝一の日本漫画社に移って貸本漫画を多数手がける。1959年からは長井が新たに設立した三洋社で『忍者武芸帳』の刊行を開始。1962年まで全17巻が刊行され、当時としては破格の大長編となった。1961年、長井が三洋社を解散し青林堂を設立、白土はここで『サスケ』『忍法秘話』などの貸本を手がける。1963年、『サスケ』『シートン動物記』により第4回講談社児童まんが賞受賞。

1964年、青林堂より『ガロ』が創刊。『ガロ』はもともと白土の新作『カムイ伝』のための雑誌として創刊されたものであり、白土はこの作品のために「赤目プロダクション」を設立し量産体制に入る。白土は『ガロ』の設立者だったため原稿料が出ず、そのため『カムイ伝』のほかに他誌にも『ワタリ』『カムイ外伝』(ともに1965年-)などを発表しスタッフを養った。1971年、『カムイ伝』第一部が終了。続編が待たれたものの長く再開されず、第二部が開始されたのは、『神話伝説シリーズ』(1974年-)や『カムイ外伝 第二部』(1982年-)などの作品を経た1988年のことである。第二部は『ビッグコミック』で2000年まで連載され、2006年に発売された全集に書き下ろしを加え完結。2009年には『カムイ外伝』の新作を久々に執筆した。現在『カムイ伝 第三部』を構想中である。

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