二刀流 宮本武蔵 実は踵で歩き鍛錬

6kgの頭を支えるためには身体の軸をぶれさせない事、鍛錬の末に武蔵は足場の悪い所でも、ぶれず、二刀流をふるえる様になった、そして強い厳しい武道の師、父を殺したかった、故に姓を捨て宮本武蔵と名のった、そして諸国行脚の旅、途中幾回も勝った・・・巌流島の佐々木小次郎との果たし合い。実は遅刻も無かった、武蔵は約束は守る。勝った。それは島の岩の上で武蔵だけが跳ね回れたから。・・・そして父を越える60勝以上の勝ちは全国かけまわり、武蔵は強い、日本一、強いとの評判となった。武蔵自ら俺が一番強いと勝ち誇り行脚を続けた。がどうしたことか?何処の殿からもお呼びは来ない。俺はこれからどう残りの人生をすべきか?剣の腕前だけではないのかも?そこに下々の雇上げがあった、武蔵は食うためにも邁進した。同時に二刀流の剣の修行、学問にも。いずれ出世。同時に武蔵は知ってゆく。人は剣のみに非ず、知のみに非ず、芸術もあり、水墨画そこには武蔵流の奔放な作品が現存するがそれのみに非ず。徳川家康の家臣として。そして晩年近く武蔵は開眼し、それは弱った身体であっても記さねばならぬ。それが五輪書。己のみならず、人の幸せを祈り、自ら精進してゆく事。剣のみに生きた若き日の己の何と愚かだった事か。やがて武蔵は60歳代後半で逝ったという。ここに何某か学ぶ事あらんや。
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