特別高等警察。

確か、NHKの朝ドラ、わろてんか、の時にも書き込み済みと思いますが、Wikipediaの抜粋、改変です。特高あるいは特別高等警察でググれます。

特別高等警察は、国事警察として発足した高等警察から分離し、国体護持のために無政府主義者共産主義者社会主義者、および国家の存在を否認する者や過激な国家主義者を査察・内偵し、取り締まることを目的とした日本の政治警察である。内務省警保局保安課を総元締めとして、警視庁をはじめとする一道三府七県に設置されたが、その後、1928年に全国一律に未設置県にも設置された。略称は特高警察(とっこうけいさつ)、特高(とっこう)と言い、構成員を指しても言う。第二次世界大戦後の1945年に連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の指示により廃止された。
特別高等警察は、高等警察の機能を持つ組織である。高等警察とは、「国家組織の根本を危うくする行為を除去するための警察作用」と定義される。いわゆる政治警察や思想警察のことである。戦前の日本では、治安警察法、出版法、新聞紙法などに基づいて、この種の警察作用が行われた。特別高等警察では、このうち特に、社会主義運動、労働運動、農民運動などの左翼の政治運動や、右翼の国家主義運動などを取り締まった[3]。

沿革編集

1910年(明治43年)、明治天皇の暗殺を計画したとして、大逆罪の容疑で多くの社会主義者無政府主義者が逮捕・処刑された(幸徳事件(大逆事件))。これを受け、翌1911年(明治44年)に、それまで高等警察事務の一部であった危険思想取締りのため、内務省が枢要地に特に専任警部を配置することを勅令で決定し、同年8月21日に警視庁の官房内に従来より存在した政治運動対象の高等課が分課されて、社会運動対象の特別高等課が設置された。

同課の設置により、地方長官や警察部長などを介さず、内務省警保局保安課の直接指揮下に置かれ、内務省と一体となって社会運動(同盟罷業・社会主義運動・共産主義運動・諜報活動・爆発物・印刷物等)の取締りにあたった。これにはフランスの秘密警察の影響がみられる。特別高等警察を指揮した内務官僚には安倍源基や町村金五町村信孝の父)などがいる。

また大阪府にも1911年に警察部長直属の「高等課別室」が設置され、翌1912年に特別高等課に昇格した。

1913年の警視庁官制の改正によって、特別高等課は、特別高等警察外事警察労働争議調停の三部門を担当する課として位置づけられた。

1922年に日本共産党が結成されると、1922年から1926年にかけて、北海道・神奈川・長野・愛知・京都・兵庫・山口・福岡・長崎など主要府県の警察部にも特別高等課が設けられ、1925年には治安維持法が制定され取締まりの法的根拠が整備された。

三・一五事件をうけ、1928年には「赤化への恐怖」を理由に全府県に特別高等課が設けられ、また、主な警察署には「特別高等係」が配置され、全国的な組織網が確立された。1932年6月に警視庁の特別高等課は「特別高等部」に昇格した。

1932年に岩田義道、1933年には小林多喜二に過酷な尋問を行なって死亡させるなど、当初は、共産主義者共産党員を取締りの対象としているが、後に日本が戦時色を強めるにつれ、挙国一致体制を維持するため、その障害となりうる反戦運動や類似宗教(当時の政府用語で、新宗教をこう呼んだ。)など、反政府的とみなした団体・活動に対する監視や取締りが行われるようになった。第二次世界大戦中には「鵜の目鷹の目」の監視網を張り巡らせたほか、横浜事件や俳句弾圧事件など言論弾圧といわれる事件をひきおこした。

1944年に大阪府警察局に「治安部」が設置され、特別高等課も配置された。

敗戦後は進駐軍不法行為の監視を行った(特殊慰安施設協会参照)。当初、内務省は陸海軍の解体・廃止に伴う治安情勢の悪化に対応するために、警察力の増強と、特高警察の拡充を行うつもりでいた。「昭和21年度警察予算概算要求書」には、特高警察の拡充・強化のために、1900万円が要求されていた。内容は、1.視察内偵の強化(共産主義運動、右翼その他の尖鋭分子、連合国進駐地域における不穏策動の防止)、2.労働争議、小作争議の防止・取締り、3.朝鮮人関係、4.情報機能の整備、5.港湾警備、6.列車移動警察、7.教養訓練(特高講習、特高資料の作成)の計7点である。

政府・内務省は、警察力の武装化特高警察の拡充・強化によって、敗戦による未曽有の社会的悪条件の下にある民心の動揺を未然に防止し、不穏な策動を徹底的に防止することを狙っていた。1945年10月5日、政府はGHQに上記の警察力拡充計画の許可を求めたが、GHQはこれを拒否している。

1945年10月4日、連合国軍最高司令官総司令部GHQ)の人権指令により、治安維持法と共に廃止された。しかしながら、内務省上層部は、日本共産党などの反政府的動静に対処するためにも、全国の特高警察網を温存させる必要があると考えており、1945年12月19日、特高警察に「代わるべき組織」として、内務省警保局に公安課が設置され、各都道府県警察部にも警備課が設置された(公安警察)。

GHQによる人権指令により、特別高等警察に在籍していた官僚・警察官は、公職追放の対象になったものの、戦争犯罪人として指定され、問責・処罰の対象となった者は、内務省特高警察関係者には1人もいなかった。1万500人の特高警察関係者の中で、内務大臣、警保局長、保安・外事・検閲各課長および各府県の警察部長級51人、特高課長・外事課長55人、警部168人、警部補1000人、巡査部長1587人、巡査2127人の合計4990人が休職となり、その後「依願退職」の形で罷免となった。ただし、G項該当追放者はわずかに319人、一斉罷免者の数はさらに少ない86人でしかなかった。茨城県警察部土浦警察署の署長であった池田博彦は、特高警察関係者の半数近くが罷免されたことによって、警察の情報収集能力が落ちたことを嘆いていた。

1946年1月3日、アメリカ人ジャーナリストのマーク・ゲインが、山梨県警察部大月警察署の署長に対して、「特高警察が解体されて、破壊分子を監視する機関がなくなったのはまことに困ったことではないか」と質問したところ、署長は、「それはたいしたことではない、なぜなら特高警察の仕事は県庁の公安課の司法官の手に引き継がれたから」と説明している。署長は続けて、「私もちょうど県庁所在地での会議に出席して帰ったばかりです。その会議は12月28日、29日の2日間開かれて、いま公安課にいるもとの特高係長がわれわれの仕事についていろいろ新しい指示を与えました。とくに今度の選挙についての」と語っている。このように、特高警察の業務は、公安警察に継承されていた。

GHQ参謀第2部(G2)は、特高警察関係者の中から、公職追放された者を多く雇用して、元特高警察官の知識や経験を情報収集や謀略活動に利用しており、内務省調査局と、その後身である法務庁特別審査局に入局させて、レッドパージの先鋒としての役割を担わせていた。特別審査局の調査第三課は、特高警察の元締めであった内務省警保局保安課[注釈 3]と編成が酷似しており、団体等規正令第11条により解散処分となった日本共産党全労連の動向を監視していた。G2は公安警察とも密接な関係にあり、日本の各地方に置かれたG2管下の対敵諜報部隊(CIC)は、各都道府県警察部の警備課(公安課)と緊密な連絡を取り合って諜報活動に従事していた。後にG2は、中央集権的な警察機構の存続を望む内務省警保局を支持し、警察機構の分権化・細分化を進めるGHQ民政局(GS)と鋭く対立している。

その後、GHQ占領政策の転換に伴う公職追放者の処分解除(逆コース)により、1951年9月以降、旧自治省警察庁・警視庁公安部・公安調査庁・厚生省・労働省・旧防衛庁宮内庁・文部省・日本育英会住宅金融公庫・年金福祉事業団・日本住宅公団首都高速道路公団阪神高速道路公団・日本観光協会などの上級幹部職に復職していった。

また、公職復帰後に知事や副知事を足掛かりに、国会議員となり、その後、自治大臣国家公安委員会委員長や、文部大臣、法務大臣となる者もいた。