軍艦 大和は、大和型戦艦の1番艦[6]。大和の艦名は奈良県の旧国名の大和国に由来する[7]。艦名は、明治・大正時代の海防艦/特務艦大和[8]に続いて二代目。
大和は戦艦として史上最大の排水量に、史上最大の46cm主砲3基9門を備え、防御面でも重要区画(バイタルパート)では対46cm砲防御を施した軍艦で、設計はもちろん、ブロック工法の採用など施工においても当時の日本の最高の技術が駆使された。しかしその存在、特に、46cm主砲の搭載が最高軍事機密であったので、建設時から秘匿に力が注がれ、また完成が数日差ながらすでに戦時中になっていたこと、さらに敗戦直後に設計図含め多くの記録が焼却処分されたために、その姿をとらえた現存写真は非常に少なくなっている。
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦直後の1941年(昭和16年)12月16日に就役[9]。1942年(昭和17年)2月12日に連合艦隊旗艦となった(司令長官山本五十六大将)[10]。6月上旬のミッドウェー作戦が初出撃となった。1943年(昭和18年)2月、司令部設備に改良が施された同型艦の武蔵がトラック島に進出し、同艦に連合艦隊旗艦任務を移譲。同年末、大和は輸送作戦中に米潜水艦の雷撃で小破した。 修理後、1944年(昭和19年)6月の渾作戦、マリアナ沖海戦に参加した。同年10月中旬以降の捷一号作戦で、アメリカ軍の護衛空母部隊に対し46cm主砲砲撃を実施した(レイテ沖海戦)。1945年(昭和20年)4月7日、天一号作戦において第二艦隊(第一航空戦隊)旗艦として麾下の第二水雷戦隊と共に沖縄方面へ出撃したがアメリカ軍の機動部隊の猛攻撃を受け、坊ノ岬沖で撃沈された。
で、何をいーたいか?大和が、あったればこそ、宇宙戦艦ヤマト、その後のヤマトシリーズがあった。そしたら、少なくとも僕は大和に感謝せな、あかん!でしょ?