ブッダの言葉 まとめ

ブッダの言葉 テキストは超訳ブッダの言葉 は一旦、終了。にあたり、書きとめたものを、まとめました。これで私の仏教研究は終わったとは思っていません。祖父が死の床につきながらも、書を片時も離さなかった、その姿勢なりとも、模範にしたいと考えています。同時に、まとめたものも、テキストというには、不完全過ぎると考えています。まぁ、仏教のてびきの「て」、くらいにはなっているのかもしれません。

では、まとめをペーストします。
順番は無視してください。

ブッダの言葉 

156
私の言葉にすら依存しない
君が川を渡るために筏をつくって、
川を渡ったあとでこう考えたとしてみよう。
「この筏はとても役に立ったから捨てずに背負って歩いてゆこう」と。
そんなお荷物をかかえ込んでしまっては、
重たくて重たくて、まともに歩けはしなくなる。
それが君の業績であれ学歴であれ職歴であれ、この筏と同じこと。
私の言葉も教えも真理すらもまた、
この筏のようなものにすぎないのだから、
君が私の教えを使い終わったなら、惜しむことなく捨て去るように。
中部経典『蛇喩経』

157
空という自由
お金や物を増やすことに執着せず、
自らにとって最適な食事の量を意識のセンサーでビシッと認知して
食べ過ぎぬゆえに身体は軽く、
心が縛られることなく、どこまでも「空」となるならば、
その自由は無色透明で他人には見えにくいもの。
あたかも空を自由に飛ぶ鳥の飛んだ軌跡は透明で
目に見えぬのにも似て、
他人には見えもせず理解しがたいにしても、
「空」となることで自分自身を乗り越える。
法句経92

158
たとえ、君が過去に罪を犯した者であっても
君がかつて一千人もの人々を刀で斬り殺して
被害者の指を集めて糸に通し、首飾りをつくる殺人鬼だったとしよう。
そんな罪を犯した君も懸命に修行を重ね、
ついには悟りを開くこととなった。
そんな君が難産に苦しむ婦人を見て
「ああ、苦しんでいてかわいそうに」と同情心が湧いたなら、
その婦人に近づいてこう言うといい。
「私は生まれてよりこのかた、
わざと生き物を殺したことはただの一度もありません」
それが嘘になるならこう言うといい。
「私は悟って人生が変わってよりこのかた、
わざと生き物を殺したことは、ただの一度もありません。
この不殺生の真実によって、
あなたとお腹の赤ちゃんが楽になり、安産となりますように」と。
中部経典『アングリマーラ経』

166
もう、生まれ変わらない
あの一生がやっと終わったかと思いきや、
またクルンと生まれ変わって、
今度はこの一生が始まる・
と繰り返すのはたいへんすぎる。
死んだら、身体と神経と記憶と衝動と意識という
五つのパーツがバラバラになる。
バラバラの部品をもう一度組み立てて、
この人生という家をつくり直す黒幕はいったい何者だろう?
私はその正体を見破れないままに、
何度も何度も生まれ変わってきた。
人生の黒幕よ、
おまえの正体は「欲しい欲しい、足りない足りない」と騒ぐ
生存本能なのだと私はもはや見破った。
おまえが生まれ変わりの建築材料に使う煩悩も無知も、
すべて破壊し尽くした。
私は次に死んだら二度と生まれ変わらないだろう。
私の心は、生まれ変わりを続けさせる衝動を離れて
静まりかえり、
生存本能を滅してブッダとなったのだから。
法句経153、151

171
世界はすべて揺れ、移ろいゆく
この心がつくり出している目の前に広がる世界には、どこにも確かな拠りどころなど見つからない。
この世界のすべては微細なレベルで見れば振動し、揺れつづけて移ろいゆくもの。それらにすがることなどできやしない。
私はかつて、拠りどころを求め世界中を探求してみたけれども、グラグラ振動せず移ろいゆくことのない安らかなところ
など、どこにも見つからなかった。
経集937

172
諸行無常
諸行無常、すなわち世のすべてはすぐに移ろいゆく。
これも過ぎ去る、あれもまた過ぎ去る、それもまた過ぎ去る。
物質と心を司るすべてのエネルギーは、微細なレベルで観察するなら、一瞬たりとも安定することなく、崩壊しては新し
く生成する。
これを猛烈なスピードで繰り返し、ぐらついている。
どこにもしがみつくことなどできはしない。
これを坐禅瞑想により
肚(はら)の底から衝撃とともに体感するなら、
君は苦しみから離れ、君の心は清まり安らぐだろう。
法句経

279 諸法無我
諸法無我、すなわちすべてのものは、自分のものではない。
これも、あれも、それも。
あらゆる心理現象も物理現象も、そのすべては自分のものではない。
この身体も、この感覚も、この記憶も、この好き嫌いも、
この意識も、この世界も、すべては自分のものではない。
これを坐禅瞑想により
肚の底から衝撃とともに体感するなら、
君は苦しみから離れ、君の心は清まり安らぐだろう。
法句経279

174
一切行苦
一切行苦、すなわち、これも苦、あれも苦、それも苦。
物質と心を司るすべての衝動エネルギーは、
ことごとく苦しみでしかない。
楽しいと脳内錯覚させられていることすら実は苦しみなのなら、
あらゆるこだわりは意味がない。
これを、坐禅瞑想により
肌の底から衝撃とともに体感するなら、
君は苦しみから離れ、君の心は清まり安らぐだろう。
法句経278

175
苦しみは聖なる真理
苦しみは聖なる真理。
生まれるとき苦しくて泣き叫ぶ。
一瞬一瞬、細胞が崩壊してゆく、
老化現象も苦しみ。
いろんな不調が体内でひそかに進行してゆくのも苦しみ。
やがて身体が壊れる
死に直面するのも苦しみ。
生老病死すべて苦しみ。
長部経典『大念処経』

176
怨憎会苦
生きているかぎり君は必ず、
いやな光景・いやな音・いやな香り・いやな味・いやな触覚と、
それから、いやな思考に襲いかかられそのつどに、
苦しみの神経刺激が生じる。
そのうえ、君を嫌う人々を必ずや君の業が呼びよせてきて、
かれらといっしょにいるそのたびに、苦しみに襲われる。
それが当たり前の真理。
長部経典『大念処経』

178
求不得苦
手の届かないような高嶺の花ほど、実際よりも美しく見え、欲望をかきたてるものはない。
手に入りそうもない、あり得そうもない 「遠い何か」に憧れ追い求めるとき、君は苦しみの神経刺激にビリビリバリバリ
とさいなまれて、ドキドキドキドキと興奮する。
実現不可能な願望の代表例は四つ。
「生まれたくなんてなかったのに」
「老いたくない、ずっと美しくありたい」
「病気になんてかかりたくない」
「死にたくない」
そんな願望を持つたびに、苦しみが君の心身を痛めつける。
長部経典『大念処経』

183
君にもいずれ、死が訪れる
君にもやがて身体が崩壊し、死が訪れるときがくる。
その崩壊のときがくる前に、君に話しておくべきことがある。
「欲しい欲しい、足りないよー」という欲望を手放して、安らぐこと。
過去から貯めこんできた記憶への執着を手放して、
軽やかに、今この瞬間をよけいなことを考えずに生き抜くこと。
そうすれば、すべてのことに「ま、いっか」と
心はすこぶるやわらかくなるだろう。
経集 849

185
死ぬときに持って行ける唯一のもの
食べものもお金も貴金属も、いかなる所有物であっても、
君が死ぬときには、持って行けない。
君の召し使いも、従業員も、君のとりまきで君の影響下にある人々も、
君が死ぬときは、誰ひとり連れていけない。
死ぬときは、すべてを失う。
死ぬときに唯一この手に残るのは、
君がこの人生で行動してきた身体の業と
話してきた言葉の業と
心の中で考えてきた思考の業、
たったそれだけ。
君はその報いだけを受け取り、
旅立ってゆく。
あたかも影が人につきまとうがごとく、
業は君を追いかけてゆく。
ゆえに、思考・言葉・身体を整えて、
未来に備えて善業を積むように。
営業は、未来の君にとっての、ただひとつの財産となる。
相応部経典

超訳 ブッダの言葉  3

業を変える のみから取り出しみました

(業(ごう)、業報(ごうほう)、業力(ごうりき)、応報(おうほう)、[要出典]カルマ(梵: कर्मन् karman[注釈 1])に由来し、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語[2]。原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い」「悪い」といった色はなく、暗いニュアンスもない[3]。
インド哲学正統派、および異端派の一部(仏教など)の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる[2][4]。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある[4]。
業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である[5] これらの多くの説では、善意と善行は良い業と幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪い業と悪い再生をもたらすとされる[6](善因善果、悪因悪果)[7]。 )

063
君は、これまで君の心が思ったことの集合体
君という存在は、過去に「何を考えたか」によって、その考えたり感じたりした内容が、ひとつひとつ心に蓄積されミックスされた結のつぎはぎとして、今、ここに立っている。すなわち君とは、これまで君の心が思ったことの集合体。君がイヤなことを思うなら、少しだけイヤな業のエネルギーが心に刻まれ、そのぶんイヤな君に変化する。君が優しいことを思うなら、少しだけポジティブな業のエネルギーが心に刻まれ、そのぶん温かい君に変化する。
こうして人間は、心で思ったとおりのものへと少しずつ変化してゆく。すべては心が思うことから生まれ、すべては心が思うことによって創られる。ゆえにネガティブな心によってイヤな話をしたり、ネガティブな心によってイヤな行動をしたりするならば、必ずや苦しみが自分についてくるだろう。
ページ 2259
37%
優しくポジティブな心で話したり行動するなら、必ず安らぎが自分についてくる。
そう、影が君の歩く後ろから必ずついてくるかのごとく。
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法句経1、
2
36%

064
善いことを思ったら、すぐに実行に移す
落ちついた心で何かに打ちこもう、という気持ちがわいてきたなら、急いでそれを実行に移し、善い業のエネルギーを心に刻んでおくこと。そうすることで、ネガティブな思考が心を占領しようとするのを防ぐように。なぜなら、せっかく善いことをしようという心が出てきても、うかうかしているとすぐに、ネガティブな思考に入れかわってしまうのだ
から。たとえば「今日は掃除をしよう」と意気込んでいても、すぐに始めないで先に遊びはじめると心が変わり、「やっぱり時間もないし、やーめた」とネガティブな業を積むはめになるのだから。
法句経!-
-94/259
37%

065
ネガティブなことを思わない
もし君が、ネガティブな思考にとらわれたり、ネガティブな思考のままに話したり行動したならば、そのネガティブな悪業をそれ以上は繰り返さないようスッパリやめること。ネガティブなエネルギーは刺激的でクセになるけれども、それへの中毒にならぬよう気をつけること。ネガティブな悪業のエネルギーを心に溜めこんでゆくのは、君の苦しみを増やすことでしかないのだから。
法句経117
ページ95/259
37%

066
もし君が業の法則を知らないままでいたら
君がせっかく眠ろうとしてベッドに入っても、これまで積んできた悪業のネガティブなエネルギーに支配されると、ネガティブ思考がグルグルと頭の中を駆けめぐって眠れなくなる。そんなイライラした夜はとても長く、いつまでも朝がこない。君が疲れ果てて精神的にまいっていると、目的地まで歩いてゆく道のりは、果てしなく長いと感じられる。そして君が、業の法則を知らずに死んでゆき、また生まれ変わりを繰り返すなら、その苦しみの輪廻転生の道のりは、気が遠くなるほどに長い。
法句経60
ページ96/259
37%

067
自分の内面を見つめることなく生きていったら
自分の内面を見つめることのない愚か者は、自分を敵のように痛めつけながら歩む。悪い業を積んで白滅する結末をいつか迎えるまで、知らず知らずのうちに破滅へ向かって。
ページ7/259
法句経66
38%

068
悪い業
あとになってから「やっぱりやらなきゃよかった」と後悔し苦しむならば、その行為は悪い業として心に蓄えられる。その悪業をなしたネガティブなエネルギーが心の中で熟し、やがて苦しみの報いを泣きながら受けるはめになるのだから。
法句経67
ページ98/259
38%

069
善い業
あとになってから「やっぱりやらなきゃよかった」と苦しまずにすむなら、その行為は善い業として心に蓄えられる。その善業をなしたクリアなエネルギーが心の中で熟し、やがて心地よき報いを楽しい充実感とともに受けとるのだから。
法句経68
ページ99/259
38%

070
悪い業が熟成するまでの長い時間
フレッシュなミルクが発酵してヨーグルトへと固まってゆくのには時間がかかる。君が悪い業を積み、ネガティブなエネルギーを蓄えたとしても、そのエネルギーが熟し固まってイヤな結果を引き起こすまでには、時限爆弾のごとく時間がかかる。灰に覆われた残り火がしつこく燻るかのように、悪業のエネルギーは心の中で燻りつづけ、やがて燃え上がって君にダメージを与えるだろう。
ページ 100 259
法句経71
39%

超訳 ブッダの言葉  3−2

071
死してなお怒りの業は
もしも、怒りの業を積みあげて、君が死してのちはそれが身体をもたない怒りの思念のみとして生まれ変わったなら、口の前の現実などどこにもなく、ただひたすらに思念のみが夢の中のように妄想をつくりあげ、君の目に何度も何度も怒りの幻覚を見せつづけるだろう。たとえば膿や血の混ざった鍋で自分がグツグツ煮られる幻覚。そこから逃げ出してみせても、休中に膿と血がベトベトとまとわりついてオエーッとなる幻覚。過去の怒りが残響していて怒りを反復したいがゆえに、自分からわざわざ怒りたくなるようないやな幻覚ばかりを見て悩み苦しむ羽日になる。
経集 671
ページ 101259

072
悪業の報いを受けるとき心の法則を知らない者は、
自分の行った悪い行動・悪い言葉悪い思考によって
心に悪い業のエネルギーが刻み込まれても気にかけない。心の法則を知らない者は、その悪業のエネルギーがたっぷりグツグツ煮られて熟して、ついにいやな報いを受けるまでのあいだは、「自分は楽しんでいる。甘い汁を吸っている」と妄想していられるだろう。他人に対して生意気な態度をとるという行動をとれば一瞬、楽しさの錯覚がある。嫌いな人についてグチの言葉を吐いたり、
ページ102/259
40%
嫌いな人に対して「ムカツク」という思考にふけったりするのも、一瞬は気晴らしになったような錯覚が生じるだろう。しかしながら悪業のエネルギーがグツグツ煮られて報いを受けるときには、愚か者もついに苦しみを味わう羽目になる。
ページ102/259
法句経69 119
40%

073
最低の人とは
行動・言葉・思考によって、ネガティブなことを言ったり考えたりする悪しき業を積みながら、「これが他人にバレないようにごまかそう」と隠そうとする人こそが、 最低の人と呼ばれるにふさわしい。
たとえば、心では「早く帰りたいなあ、この人の話はつまんないなあ」とイライラ考えて怒りの業を積みながら、表面では笑顔を浮かべて、「あなたの話はウィットに富んでいて、おもしろく聴かせていただきました」なんてごまかすとしたら、内面とうわべの矛盾ゆえに、君の中にストレスが溜まる。
そうやって、君はだんだん最低の人になってしまう。
法句経127
ページ104/259

074
悪い業が減らないのは
「あの人はここがよくないのよね」「この人は服のセンスが悪いね」 「その人は性格が歪んでるよね」などと、他人の問題点ばかり見ていつもケチをつけるとしたなら、さまざまな煩悩エネルギーが蓄積されていくばかりで、いつまでたってもネガティブな業を減らすことはできないだろう。
法句経253
ページ 105/259

075
悪い業のエネルギーを軽く見ない
自分が行動・言葉・思考によってつくる悪い業のエネルギーを軽く考えて、「その報いは、私にだけは返ってこない」と錯覚しないように。ポタポタしたたり落ちるだけの水滴でも、やがては大きな水瓶をいっぱいにする。まさにそのように、悪しきエネルギーは君の心の水瓶にポタリポタリとしたたり落ちて蓄積されて、やがては君の心の水瓶を悪しきエネルギーでいっぱいにする。
法句経121
ページ10/259
41%

076
善い業のエネルギーを軽く見ない
自分が行動・言葉・思考によって心に刻み込む苦い業のエネルギーを軽んじて、「どうせ善いことをしても、その報いは自分に返ってこないからどうでもいいや」と投げやりにならないように。たとえ誰も見ていないところで、公衆トイレを使うときに陶器の汚れを見つけ、それを次に使う人のためを思って拭き取ってあげようという程度の善い心でも、一滴一滴の水滴がやがて水瓶すらいっぱいにするように、少しずつ蓄積される。業のポジティブなエネルギーは、心の水瓶にポタリポタリとしたたり落ちて少しずつ蓄積されて、やがて心地よい報いをもたらすだろう。
法句経122
ページ107/259
41%

077
行動と言葉と思考が業になる。
ネガティブな行動やネガティブな言葉やネガティブな思考を行うくらいなら、何も行動せず、何も言わず、何も考えないほうが優れていなぜなら、それらによるネガティブな業のエネルギーは心に蓄えられて、あとになってから自分を苦しめるのだから。
ポジティブな行動・言葉・思考を行いたくなったときは、なんでもいいからとにかく実行したほうが優れている。あとになってから苦しむことがないのだから。
法句経314
ページ 108/259
41%

078
善い業が熟成するまでの長い時間
善い行動や善い言葉や善い思考によって、心に刻まれたポジティブなエネルギーが、グツグツと煮られて善業の報いが訪れるようになるまでのあいだは、善いことをしたとしても、すなわち不幸に見舞われることがある。しかしながら、ポジティブなエネルギーが煮られ熟成するとき、さまざまな幸福に満たされる。
ページ109/259
法句経120
42%

079
ネガティブ思考を乗り越えた者の四つの安心感
ネガティブ思考を乗り越えた君が、欲望を離れ、怒りと迷いの霧を離れ、心が美しくなったなら、次の四つの安心感が君にある。もし業の報いと輪廻が本当なら、君が信じようと信じまいと、死後によい生まれ変わりをするだろう。もし死んだら終わりで輪廻が嘘だとしても、今のこの人生でイラつかず苦しまず安らぎがある。
ページ110/259
42%
もし悪しき業が苦しみを引きよせるというのが本当なら、「悪いエネルギーをつくってないから苦しみはやってこないよね」と安らげる。もし悪しき業が苦しみを呼ばないにせよ、「悪いエネルギーが溜まってないから心がきれいに澄んでいるよ」と微笑める。
A-110/259
部経典
42%

080
自業自得
「自分」というバケモノは、自分自身が心の中で思い描いた欲望・怒り・迷いの思考によって、少しずつけがされてゆく。「自分」というバケモノは、心の中で欲望・怒り・迷いの思考を思い描かないことによって、少しずつきれいになってゆく。こうやってけがれるのもきれいになるのも、すべては各白、 一人ひとりの自業自得。他人が他人の心をきれいにするなどできやしないのだから、よけいな口出しはしないこと。
法句経165
ページ12/259
43%

081
傷がない手に毒は進入できない
触れられる手に傷がなければ、毒に触れてもは進入できないのだから、その手で、何ごともなく安心して毒を扱える。傷なき者に対しては毒は何もできやしないのに似て、心に悪業という傷のない者に対しては、非難も中傷も災難という毒すらも、まった
く侵入することはできない。悪業のエネルギーを蓄えていない人には、悪すなわち不幸はやってこない。
法句経124
ページ113/259
43%

082
業は変化させられる
人は、肌の色や、王様の子か社長の子か平民の子か奴隷の子かといった階級や、生まれつきの美といった見た日などによって、卑しい人となるのでもなければ、清らかな人となるのでもない。これまで心に刻み込んできた業のエネルギーによって、だんだん卑しい人になりもすれば、その業のエネルギーを変化させることによって、だんだん清らかな人になりもする。
経集136
ページ114/259
43%

083
悪い業を解消する方法
空中に飛んで逃げても、無理。
海の中にもぐって逃げても、無駄。
山々の奥深くまで逃げても、無意味。
この世界のどこにも、逃げ場はない。
これまで蓄えてきた悪しき業のエネルギーの報いからは、決して逃げとおすことはできず、
いつか、その「借り」 を支払う羽目になる。
いやな口に遭っても、逃げもせず拒絶もせず、
「この程度の報いですんでよかった」と明るく受け入れるなら、悪しき業の借金はすうっと解消してゆくだろう。
ページ115/259
44%
ページ115/259
法句 127 14
44%

084
ネガティブな行動・言葉・思考
人生をつくる君がネガティブな行動・ネガティブな言葉・ネガティブな思考をするのがクセになってしまい、それらを通じて悪い業を心に刻み込んできたならば、生きている間から、その業のエネルギーにより、いつもイライラして不幸な日々を送る。そのうえやがて死ぬときは、来世においていやな生まれ変わりをする羽目になるだろう。「自分は他人に非難されることをたくさんしてきた、バレたらどうしよう」とイライラし、死後はいやな生まれ変わりをして、いっそう苦しむことになるだろう。
法句経 17
-116/259
45%

085
ポジティブな行動・言葉・思考が幸福な人生をつくる
君がポジティブな行動・ポジティブな言葉・ポジティブな思考を通じて苦い業を心に刻み込んできたなら、生きている間から、その業のエネルギーによりいつも幸福でいられる。そのうえやがて死ぬときは、来世において幸福な生まれとなり、今世でも来世でも安心して過ごすことになるだろう。「自分は誰からも後ろ指をさされることはない」と安心でき、死後は善き生まれ変わりをして、いっそう心配のない生活を送ることになるだろう。
法句経18
ページ117259
44%

超訳 ブッダの言葉 6−1

一つとばして、幸せを知る のみからです。

超訳 ブッダの言葉 6−1

104
持ちものに執着しない
君よ、私は持ちものに執着しない。
ゆえに、もしブランド品の服をなくしたとしても、「何口も探し回っているのに見つからない。困った困った」とイライラすることは決してない。ゆえに、私はしあわせ
相応部経典
ページ 138/259
53%

105
成果に執着しない
君よ、私は成果に執着しない。
ゆえに、「闇に種をまいたのに今年は不作で、ほんのちょっぴりしか収穫できない、あーあ」というストレスは生じない。
あるいは、がんばった仕事を評価されなくても、 「あーあ、世の中の人たちは見る日がないな」なんてひが苦しみは決して生じてこない。
ゆえに、私はしあわせ。
ページ 139259
相応部経典
52%

106
食べものに執着しない
君よ、私は食べものに執着しない。
ゆえに、食料のストックがなくなっても、「どうしよう、早く買いに行かなくちゃ」とせき立てられる苦痛はない。
食料がたくさんあるときも適量で食べ終わるから、 「しまった!ストレスで過食してしまって、お腹が苦しいよ」という苦痛は決してじない。
ゆえに、私はしあわせ。
ページ140259
相応部経典
53%

107
寝る場所に執着しない
君よ、私は寝る場所に執着しない。
ゆえに、ノミやシラミのわいた布団ですら不満なく、リラックスして眠れる。
ふかふかの布団で寝られないからといって、「今夜は寝心地が悪いなあ」と落ち着かず眠れない、なんていうこともない。
いつでもどこでも、すっきり安らかに眠れる。
ゆえに、私はしあわせ。
相応部経典
ページ 141/59
53%

108
我が子に執着しない
君よ、私にはラーフラという名の息子はいるけれども、その子への執着はない。
ゆえに、私はしあわせ。
子どもに勉強を教えてやったぶんだけ「できるようにならないと気がすまない」なんていう、カリカリした気持ちはさらさらない。
子どもを育てるのにたくさんのお金を使ったからといって「恩返ししてくれなきゃ気がすまない」と借金取りのような思考でいら立つことはあり得ない。
相応部経典
ページ 142/259
53%

109
パートナーに執着しない
君よ、私はパートナーに執着しない。
ゆえに、パートナーが朝から自分には興味の持てない音楽をかけていても「私がこの音楽を好きではないことを知っているくせに、なんでこんな音楽をかけるんだよ」といらつく朝を迎える心配はない。
ゆえに、私はしあわせ。
ページ 143259
相応部経典
54%

110
お金儲けに執着しない
君よ、私はお金と無縁の生活をしている。
ゆえに、「もしお金がなくなっちゃったらどうしよう」なんていう心配は、 これっぽっちもない。
あるいは空しさに駆られ、「お金にものを言わせて好き放題をしてやれ」という貧しい心になることなど決してあり得ない。
ゆえに、私はしあわせ。
相応部経典
ページ 144259
54%

111
優れた人のそばにいる
これが最高の幸福。
自分よりも心が乱れていて悪影響を受けかねない人とは、丁寧に接しつつも親しい仲にはならないよう気をつける。
心がすっきり整っていて、いっしょにいるだけで自然に良い影響を受けることのできるような人とこそ、親しい仲になる。
これが最高の幸福。
そういった優れた人を尊敬して、プレゼントを贈るときの清々しさ。
経集259
ページ 145/259
54%

112
身の丈に合った住まいに住む
セレブ気取りで、自分の収入や現在の心に分不相応な高級住宅地に住んだり、気分を傲慢にさせ煩悩を増やす豪邸に住んだりすることは、
気分を落ち着かなくさせる。
これが最高の幸福。
身の丈に合った住居に落ちついて住むというごくふつうのこと。
ページ 146259
経集260
54%

113
安心していられる
これが最高の幸福。
身体で行う行動も、口から出る言葉も、心の中での思考も、ネガティブな方向に暴走しないようにじょうずに運転できていること。
これが最高の幸福。
これまで心の中に蓄えてきた善い業のエネルギーがたくさんあるなら、これから先も安心できる。
ページ 147/259
経集260
55%

114
技術を身につけ、それが人の役に立っている
「自分はひとかどの人間になった」と思い上がることなく、広くさまざまな人の話を聞き、学ぶことをやめずにいられること。
これが最高の幸福。
生きてゆくために役立つ何かしらの技術を身につけていて、それが他人様の役に立っていること。
これが最高の幸福。
ページ 148/259
経集261
55%

115
じっくりと身につけられた気品が漂う
心の躾というものはさっとすぐに身につくものではない。
長い時をかけてじっくりと身につけられた心の躾があり、他人の悪口や自分語りや乱雑な動作をしないことから、自然と気品が漂うこと。
これが最高の幸福。
ページ 149259
経集261
55%

116
家族を大事にする
かつて君の面倒を無償でみてくれた両親には借りがあるのだから、父母に優しく恩返しすることは精神的借金をきちんと完済することに
なる。
借りを完済して自立すること。 それが最高の幸福。
自分の妻ないし夫を守り支え、子を守り支え、そのためにも心を乱すことなく仕事に励み、そこに生き甲斐が持てる。
それが最高の幸福。
親族を大事にする心の余裕が持てること。
これが最高の幸福。
経集 262 263
ページ150/259
56%

117
ケチな自分を乗り越える
これが最高の幸福。
「これは自分のお金だ、誰にもくれてやるものか」というケチケチした感情を減らしリラックスするためにも、持っているものを手放し、
他人に分け与えることができる。
うっかり好物を独り占めしたくなっても、みんなで分けて食べると楽しい。
誰かへのプレゼントを買おうとして、うっかり値札に気をとられて、ひるんでも、思い切ってお金を手放し買ってみると心地よい。
そうして、 「ケチ」を乗り越え、白分に克つ。
経集263
ページ 151/259
56%

118
原因と結果の法則を意識する
心の原因と結果の法則性を意識し、苦しい結果をもたらす原因となるネガティブな思考から離れて行動する。そうして、心地よい結果を
受けとること。
これが最高の幸福。
これが最高の幸福。
自分の行っていることは誰からも非難される筋合いはないと胸を張って言えるほどに、何もごまかさずに行動できていること。
経集263
ページ 12/259
56%

119
言葉と言動がコントロールできている
身体の行動においては、殺生や浮気など苦しみを増す行為を離れていられること。
口から出る言葉においては、悪口や噂話や白分語りや嘘を離れていられること。
心の中では欲にもとづいた妄想や怒りによるイメージプレイを離れていられること。
そして、心の明晰さと集中力を破壊する飲酒を自制して、心を鍛えようとするがゆえに、絶え間なく成長してゆくこと。
これが最高の幸福。
経集 264
ページ 153/59
57%

120
満足する喜び
これが最高の幸福。
これが最高の幸福。
これが最高の幸福。
尊敬に値する心の整った人を尊敬し、偉そうになることもなく誰に対しても丁寧であること。
「今、ここではないどこか」「今、ここにはない何か」を求めていつも、「もっと、もっと」と落ち着かず彷徨い歩くのをやめて、 「今、
ここにあるごくふつうの物や人」に満足して、心が温かく充足していられること。
自分の心にとってタイミングのよいときに、心の法則についての教えを聞いたり読んだりすることで、うっかり忘れそうになる真理を、
繰り返し心に染み込ませて成長してゆくこと。
他人からこれまで受けてきた恩を思い起こし、それに報いたいという明るい心が湧き上がってくること。
ページ 154/259
58%
これが最高の幸福。
ページ 154/259
経集 265
57%

121
心を鍛える喜び パート1
これが最高の幸福。
いやなことをされても言われても耐え忍ぶことができ、心にダメージを負わない打たれ強さを身につけること。
耳に痛いように思える内容のことを言われても、それが自分を良い方向に変えるのに役立つ内容であれば、プライドなど捨てて聞き入れる。そのような素直さが身についていること。
これが最高の幸福。
心を鍛えようとして、トレーニングをしている修行者に会って見習うことや、ふさわしいタイミングで心の仕組みを話題にして話し合えるような相手がいること。
これが最高の幸福。
経集266
ページ 155/259
58%

122
心を鍛える喜び パート2
これが最高の幸福。
君自身が守ろうと決めた心のルールを自らに課して、集中力を高めるトレーニングと白己観察力を高めるトレーニングを行う。そのトレーニングにより心身の苦しみが生まれるカラクリを見破り、苦しみを減らしていき、ついには心の安らぎに至る。
ページ156/259
経集267
58%

123
調子のいいときも悪いときも、心がぶれない
自分にとって都合のよい情報に触れて万事が順調に進んでいるときも、
舞い上がり調子に乗ることがない。
自分にとって都合の悪い情報に触れて逆境に立たされているときも、落ち込む打たれ弱さがない。
いかなる状況のなかでも、心がぶれることなく、ネガティブにならず、心のノイズを離れて安らいでいられる。
これこそが最高の幸福。
経集268
ページ 157/259
58%

124
いつでもどこにいても何があっても幸福でいられる
心が安らいでいて平静であれば、
いかなるところで、いかなることが起ころうとも、
心がくじけることもなく、心がへこむこともなく、
負けるということがない。
それゆえに、どこにいても心が幸福でいられる。
これこそが最高の幸福。
経集269
ページ 158 259
58%

超訳 ブッダの言葉 6−2

自分を知る のみからの抜粋です。

125
自分の良くないところは自分では見えにくい
他人の良くないところはとてもよく見えるし、ついつい調子にのって指摘したくもなる。見えにくいのは、君自身の良くないところ。
自分は「いい人」のつもりでも、実は他人に善意の押し売りをしていたりするかもしれない。誠実に謝罪しているつもりでも、実は許してもらえないとすぐ腹を立ててしまう偽善者だったりするかもしれない。こういう「歪んだ自分の本性」こそが見えにくい。他人の問題点を指摘することで、「ちゃんと指摘できる立派な自分には問題がない」と錯覚するがゆえに、自分自身の問題点が隠されてしまう。
それはまるで、ギャンブルでサイコロを振って、自分に不利な目が出たらイカサマして隠してしまうギャンブラーのよう。
法句経252
ページ 160/259
59%

126
自分の内面に目を向ける
自分の内面を見つめることは、ぼんやりした意識をしゃんと覚醒させる。
「あ、今、サボって遊びたい欲望が生まれた」
「あ、今、上司への怒りが生まれた」
「おや、怒りが消えていった」
「あれ、今度は甘えが生まれたみたい」
「今は、漠然と不安になっているようだ」
こうやって意識が自分の内面に向かい、それに君がいつも気づいていられるのなら、混乱した心が整理され、明晰になる。
法句経2
ページ 161259
59%

127
自由の身へとたどりつく人
自分の内面の変化を見つめようと、絶えまなく自らに向き合う人は、それにより「瞑想」と呼ばれるにふさわしい。
自分自身の内面を見張りつづける人は、心の安らぎと白にたどりつく。
遺伝子の生存本能に支配され、無意識的に暴走させられつづけてきた奴隷のような状態から、ついに白の身へとたどりつく。
法句経225
ページ 162/259
60%

128
人の悪口に夢中になる理由
愚かにも、自分を背後から操る無意識の命令に気づかず、自分が心の闇に操られているのを知らないままの人々は、自分の心の奥底がどれだけドロドロに汚れているかなんて知りもしない。
そんなイヤな真実を見たくないからこそ君は、自分の内面から目をそらすことに専念する。
内面から口をそらすために、他人の悪口を言ったり、映画やゲームやドラマの世界に浸ったり、好きな音楽や思想に夢中になり依存する。
心の自由を求める人は、白らを支配する依存症や嫌悪感の正体を見極め打ち破るべく、白分の内面を見張り自分の心の奥底へと探検することにこそ専念する。
法句経225
ページ 163/259
60%

129
娯楽や無駄話に夢中になる理由
自分の内面を見張るのを怠って、自分をごまかす娯楽や無駄話に夢中にならないように。
それらがもたらす見せかけの楽しさに屈服することなく、自分の内面で「今、何が起こっているか」を見張りつづける瞑想者は、やがて心の安らぎにたどりつく。
ページ 164259
法句経2
60%

130
アルコールを飲んではいけない理由
●お酒を飲む代金や飲食費がかさむ。
●自己抑制がぼんやりとして喧嘩しやすくなる。
●臓器にダメージを与えて病気の原因になる。
●「酒を白制できない人」と信用を落とす。
●性欲に駆られて浮気や不倫をしやすくなる。
●脳神経のつながりが狂い、知力が衰える。
君よ、自分の内側を見張ってコントロールすることができなくなり酔っぱらう原因、すなわちアルコール類を飲むことには、六つのデメリットがある。
長部経典『六法礼経
ページ 165259
61%

131
君を苦しめるものは
君を苦しめる感情すなわち、かなわぬものを求める欲望と、いつまでも反復する怒りは、他人がつくったものではなく、君自身の心身から生まれる。
好き嫌いというわがままも恐怖によってビクッとすることも、君の心身によってつくられる。
たくさんのよけいな考えごとも妄想も、君白身の心身から生まれ、君の心をつかまえていじめる。
そう、まるで少年たちが、イタズラにカラスをつかまえ投げすてて、いじめるのにも似て
経集 271
ページ166/259
61%

132
煩悩を焼き尽くす火
ボーッとしていると、心はいつのまにか、他人に依存していたり、さっきまではやる気だったはずの仕事をなぜか急にいやがりはじめたりと、勝手に暴走する。
心が暴走しないよう内面を見張る人は、ちょっと口をそらしたすきに、心が勝手におかしな方向に暴走してゆく恐れがあるのを知っている。
暴走する煩悩に心が束縛されそうになるたびに、ジーッと内面を見張る力の火によって、小さな煩悩を焼き尽くし、大きな煩悩をも焼き
尽くし、進むこと。
法句経3
ページ167/259
61%

133
自分の心の主人たれ
君は君の心の奴隷であることなく、
君の心の主人であるように。
君こそが君の最後のよりどころ。
自分以外の何にもすがらず、自分の心を調教する。
まるで自分の仔馬を丁寧に調教するかのように。
法句経380
ページ168/259
62%

134
心穏やかな日々の理由
ほかならぬ自分によって自分を励まし、
自分によって自分を諦める。
そのように、白分によって自分を守り、
自分の内側を見つめていけば、
君はいつだって心穏やかな日々を送る。
法句経379
ページ169259
62%

135
安易な道を選ぶ人
恥を知らずに他人を困らせる人。
餌を食い散らかすカラスのように厚かましい人。
我を押し通そうとするジャイアンのように横暴な人。
心はちっぽけなのに、まるで王様のように偉そうにする人。
「何様のつもりですか?」と言いたくなるほど生意気な人。
かれらは、自分の心を向上させようとする難しい道のりを捨てた。
堕落しつつ苦しみを増やしてゆくという、安易な道を選んだのだから。
法句経244
ページ 170/259
62%

136
困難な道を選ぶ人
恥を知り、感情の暴走を抑制する人。
心の欲望・怒り・迷いという「赤」を薄めようとする人。
執着をサラッと手放そうとしている人。
うっかり偉そうにしてしまいそうになる傲慢さを
ポイッと捨てようと努めている人。
苦しみのないスッキリした生活を日々送ろうとしている人。
そして、自分の心を観察する人。
かれらは自分の心とわたり合い、
苦しみを取り除いてゆこうとする大冒険の道をあえて選び取った。
それゆえその人生は、困難で挑戦しがいのあるものとなる。
法句経245
ページ 171/259
63%

137
ブッダたちの教えのエッセンス パート1
欲・怒り・迷妄という名の悪をつくらず、心をく整えておき、心を清め性格改善してゆくこと。
もしもひとことにまとめるなら、たったこれだけのことが悟りし者たちの教えのエッセンス。
法句経183
ページ 172/259
64%

138
ブッダの生徒であるためには
「もうダメかも」というくらいの逆境に立たされても、グサグサと非難を浴びても耐え忍び抜くこと。それが、君の穏やかさを育てる最良の試練となる。
心の安らぎこそが最高に価値あることだと、悟りし者たちは口を揃えて言っている。
安らぎを捨てて他人を傷つけ、他人を悩ませるようなことをするなら君は外道へと堕落してしまう。
ページ 173/59
法句経 184
63%

139
ブッダたちの教えのエッセンスパート2
他人を悪く言わない。 他人を傷つけない。
自分で「こうしよう」と心に課した戒を守って、自分をしっかりコントロールする。
食事は多すぎず少なすぎず、適量を感じとって終える。
独りそっと寝起きして、心の成長すなわち性格改善に努める。
もしもひとことにまとめるなら、たったこれだけのことが悟りし者たちの教えのエッセンス。
法句経185
ページ 174/259
64%

140
煩悩を焼き尽くす火を燃やせ
君よ、 香を焚いて良い匂いを漂わせたり、
お祓いをしてもらったり、
護摩の火を焚いて儀式をしたら、
心が浄化されるなんて思い込まないように。
それは単なるうわべのことにすぎない。
君よ、私は護摩の火を焚いたりする代わりに、
心の内部に強烈な火を焚いて燃やす。
心の中に消えることなき火を焚いて、
いつも精神集中をしながら、
迷いなく煩悩を焼き尽くそうと努めている。
相応部経典
ページ 175/259
65%

超訳 ブッダの言葉 6−3

身体を見つめる

141
このもろく壊れやすい身体という城
偉そうに「自我」だとか「人間様」だとか、思い上がっている君の身体は、しょせん骨と腱を組み立てて、生肉と皮膚で表面を覆ってつくりあげた壊れやすい城にすぎない。
その血だらけの城の中には、刻一刻と細胞が老いてゆく老化現象と、細胞が死滅してゆく死亡現象と、自分を実際よりステキだと思い込むナルシシズムと、君が嘘をついて隠している寂しい秘密などなどが、ぎっしりひしめき合っている。
法句経150

142
これだけしかできない身体という城外的には、歩く、立つ、坐る、寝る。
内的には、筋肉が伸びる、縮む。
君の、一見すると立派そうなこの身体にできることは、究極的にはしょせんたったこれだけしかない。
経集193、

143
身体の表面にこだわる愚かしさ
この身体は骨とで組み立てられ、牛肉と皮膚で覆われている。
皮膚に覆い隠されているがゆえに、その内側はありのままに見られず、「肌がキレイ」 「肌が荒れた」などと、君は表面にこだわったり、
「髪が抜けた」「無駄毛がはえた」などと、無用なことに心を乱される。
その表面の内側に隠されているのは、単なる生肉にすぎないことをうっかり忘れて。
経集195、196

144
身体の内側を体感する
この皮膚に隠された内側に意識のセンサーを向けて対象とするならば、身体には胃や腸がぐによぐによ詰まっていて、 肝臓・膀胱・心臓・肺・腎臓・脾臓がうごめいているのが、はっきりと体感できる。
さらに身体の中に、水分として鼻水・唾液・汗・脂肪・血・関接液・胆汁・油がぐちゃぐちゃに分泌されていることがはっきりと体感される。
経集196、197

145
身体の現実を見る
皮膚に隠された内部をよく観察してみれば、決してきれいといえないこの身体。体臭を放つこの身体を、私たち人間は、後生大事に守ろうとしがみついている。
いろんな汚物が体内には詰まっていて、うじゅるうじゅると内側を流れ、いろんな穴を通って排泄されていく。
皮膚の中にこんなにたっぷり汚物を隠し持っていながら、私は偉いとか美しいとばかりに生意気にも「あの人はダメだね」なんてケチをつけるなら君は、現実を直視する能力のない愚か者へとなり下がるだろう。
経集205~207
章を読み終えるまで : 1分
66%

146
身体の悪を静める
身体がうずうず疼いて、よけいなことをしたくなるのを、気をつけて静める。 身体の乱暴な動きをゆったり抑制する。
身体の悪、たとえば生き物を殺すこと。物やアイディアを盗むこと。 浮気をすること。アルコール依存症になること。
これら身体の悪を放り捨てて、身体を操作しポジティブな行いをするように。
法句経231

自由になる

147
信じ込んではいけない10のケース
君よ、多くの人々が「自分の言うことは正しい。あいつの言うことは間違っている」と言うため、誰の言っていることが正しいのか、わからなくなることもあるだろう。
他人にだまされ洗脳されて自由を失わぬためには、次のように注意するといい。
①「○○さんが君についてこんなことを言っていたよ」と、うわさ話を聞かされても、実際に確かめるまでは信じ込まないこと。
②「この国では昔からこうするものだから」などと伝統を持ち出されても、信じ込まないこと。
③それが流行していて評判がよくても、信じ込まないこと。
聖典やお経や木に書いてあるからといって、信じ込まないこと。
⑤実際に確かめていない憶測を聞かされても、信じ込まないこと。
⑥いかにも正しそうに、「○○理論」 や 「〇〇主義」によるとされていても、信じ込まないこと。
⑦常識に合っていても、信じ込まないこと。
⑧自分の意見に合っていても、「私もそう思ってたんですよ」と安直に信じ込まないこと。
34分が本に残っています
67%
⑨相手の服装が立派だったり職業がすばらしかったり態度がうやうやしくても、それらの見せかけに惑わされて、信じ込まないこと。
⑩相手が自分の先生だからといって、盲目的に信じ込まないこと。
支部経典
33分が本に残っています
67%

148
気持ちよさへの依存から、苦しみが生まれる
ありとあらゆる苦しみは、何かに依存することを縁にして生じる。
たとえば「好きな人に優しくしてもらうことの気持ちよさ」への依存症になると、少しでも優しくないと感じるたびに苦しみが生じ、相手との関係が険悪になる。
あるいは「仕事で目標を達成するうれしさ」への依存症になると、達成した瞬間の快感がサーッと引いたのち、空しさという苦しみが生じる。
依存症になる対象をつくる愚か者は取っかえひっかえ別のものに依存しては脳内麻薬を分泌し、自分から苦しみに近づいてゆく。
苦しみが生まれる元凶を見破ったなら、もはや依存症にかからぬよう、脳内麻薬が抜けていくのをじっと待つように。
経集 728
33分が本に残っています
67%

149
スピリチュアルなものや人に依存しない
ストレスにおびやかされて心に落ちつきがなくなると、人は神様を信じてそれに依存しようとする。あるいはどこかの教祖様を信じ、あるいは守護霊を信じて拝み、あるいはスピリチュアルな木を拝み、それらにすがろうとする。
こういった「スピリチュアルな」ものに依存したり「スピリチュアルな人に洗脳されたりすることで、現実から目をそらし、束の間の安心を得ようとする。
けれどもそれらは、安心できる拠りどころではない。
君がこれらに依存しても白を奪われて洗脳されるだけで、ストレスを生み出す心の仕組みは変わらないのだから。
法句経188、
681
33分が本に残っています
68%

150
心、この制御しにくきもの
心というしろものは、「やるぞ」と思いきや「やっぱり、やーめた」とすぐ動揺したり、 「好き」かと思いきや「気のせいだったかも」などと右往左往する。
「携帯電話をいじって時間を無駄づかいするのはもうやめよう」と思ったはずが、うっかり「あの人からのメールはまだこないのかな」と、その後に続く心の混乱を防御しそこなったりする。
心というやつは、すこぶるコントロールしにくい。
快感の麻薬を求める欲望に命令されるがままに引きずり回され、それゆえにこの心には白山がない。
自分の心を見張る意識のセンサーを鋭く光らせて、この快・不快に引きずり回される心をコントロールするように。
あたかも、矢をつくる職人が曲がった矢をまっすぐに美しくたたき直すかのごとく。
法句経3
33分が本に残っています
68%

151
不自由な君自身の心から自由になる
ネガティブな感情にとらわれるとき。
たとえば、「今まではたまたま何とかなっていたけれど、今度の仕事こそ失敗するのではないかしらん」 などという不安に支配されるとき。
そんなとき、君の心は水から陸の上へ引きずり出されてピチピチともがきまわる魚のごとく、イヤな感情から逃れようとジタバタする。
ジタバタするせいで余計にイヤな感情に支配されてしまう不白さの中に、君は投げ込まれている。
君の思いどおりに動いてくれず、勝手に動き回る心。
この心をつかまえるのは難しく、君の知らない間に君の心は、軽々しく「さっきとは違う考え」 や 「さっきとは違う感情」をつくり出し
ては、君を翻弄することだろう。
そんなヤクザな心を落ちつけて、コントロールすべく練習するように。
心をコントロールし、思いどおりに運転できるようになるなら、その白川さとともにゆったりとした安らぎが手に入る。
32分が本に残っています
69%
法句経34

152
快・不快の気分から自由になる
日に見えるもの、耳に聞こえるもの、舟に匂うもの、舌に感じる味、身体中で感じる身体感覚、心に触れる思考。
この六種類のデータが君に接触するときにボーッとしていると、君は知らず知らずのうちに「素敵な音だなあ」と快感を感じて音楽が心にすりこまれたり、 「イヤなことを思い出したなあ」と不快感を感じて気分が悪くなったりと、快・不快に支配されてしまうことになる。
快・不快の神経信号に支配されるなら、遺伝子に命令されるがままの運命に翻弄されて邪道へと転がり落ちてゆき、白山を失った奴隷になってしまう。
しかしながら、六種類のデータが君に接触する入り口を見張っておくならば、自動的に快・不快のデータ処理が進んでしまうのをストップできる。
日耳鼻舌身意の六つの門にデータが接触するたびに心を防御すれば、それらのデータに翻弄されなくなり、 白山が君の手に残るだろう。
経集736、737

153
知識から自由になる
内面を見つめる力や集中力や落ちつきといった能力を高めるトレーニングをするかわりに知識を増やそうとするのは、愚か者の証。
哲学・政治学・経済学・心理学・文学・さまざまな言語なんかの知識をむやみに増やすことによって、記憶のメインメモリーは不必要な情報のノイズで埋め尽くされ、頭が混乱するだけ。
「せっかく学んだのだから他人にひけらかしたいよー」とか「せっかく学んだのだからこの知識を使ってみたいよー」 などと、それらの知識への執着が生じるがゆえに、知らず知らずのうちに知識に支配される。
その知識のフィルターを通してしか物事を感じることができなくなり、いつの間にか不幸になってしまう。
頭を混濁させる小ざかしい知識のフィルターを離れて、ものごとをありのままに感じるように。
法句経2

154
他人の賛否から自由になる
どれだけ風がビュービュー吹いても、
山はどっしり揺らぐことがない。
そんな山に学んでみるならば、他人から「イヤな奴」と非難されても「素敵な人」とおだてられても、
そんな言葉はさらりと聞き流し、心はどっしり揺らがず平静なまま。
非難されて苦しくなるなら心は暴走して白山を失い、おだてられて調子に乗るならやはり心は乱れて自由を失う。
非難の風が吹こうとも山のごとく風を受け流すなら、君の心はどこまでも自由となるだろう。
法句経81

155
快感と苦痛から自由になる
自らの内面の声に耳を澄ますための意識のセンサーを聞いているなら君は、欲望のせいで苦しくなっていることに気づいて、欲望をサラッと手放すだろう。
「それ、今しゃべらなくても、よさそうなのにね」
と思われかねないような自分語りを、君が欲望のままにしたくなったとしよう。
その欲望ゆえに心身が不快になっていることに君が気づくなら、くだらない無駄話をストップする奥ゆかしさが生まれるだろう。
「快楽が欲しいよー、苦痛はいやだよー」
という欲望を捨てているなら、
君の心は落ち着いていられる。
誰かに優しくされてが生じても、その快感に浮かれない。
誰かに冷たくあしらわれる苦痛を受けてもその苦痛に落ちこまない。
こうして君の手には、
快感と苦痛に支配されなくなった白山が残るだろう。
法句経83

156
私の言葉にすら依存しない
君が川を渡るために筏をつくって、
川を渡ったあとでこう考えたとしてみよう。
「この筏はとても役に立ったから捨てずに背負って歩いてゆこう」と。
そんなお荷物をかかえ込んでしまっては、
重たくて重たくて、まともに歩けはしなくなる。
それが君の業績であれ学歴であれ職歴であれ、この筏と同じこと。
私の言葉も教えも真理すらもまた、
この筏のようなものにすぎないのだから、
君が私の教えを使い終わったなら、惜しむことなく捨て去るように。
中部経典『蛇喩経』

157
空という自由
お金や物を増やすことに執着せず、
自らにとって最適な食事の量を意識のセンサーでビシッと認知して食べ過ぎぬゆえに身体は軽く、
心が縛られることなく、 どこまでも 「空」となるならば、その自由は無色透明で他人には見えにくいもの。
あたかも空を自由に飛ぶ鳥の飛んだ軌跡は透明で
目に見えぬのにも似て、他人には見えもせず理解しがたいにしても、「空」となることで自分自身を乗り越える。
法句経92

ブッダの言葉 01−02

怒らない 比べない、求めないより、
私の一存でこれ、重要と思うものだけ、
抜きだします。

怒らない
009
君も相手も、やがては死んでここから消え去る
誰かと敵対して争いが生じそうになったら、しかと意識してみるといい。君も相手もやがては死んで、ここから消え去る、ということを。
君以外の人々は、「自分もやがて死ぬ」という真理をうっかり忘却しているけれども、君がこの真理をはっきり意識していれば、怒りも争いも静まることだろう。
「どのみち、君もやがてここからいなくなる。どのみち、私もやがてここからいなくなる。じゃあ、ま・・・、いっか」と怒りを捨てて、平静さを取り戻すように。
法句経6
章を読み終えるまで:1分
16%

比べない

045
二つの道
ひとつの道は、みみっちい利益と名声を追い求める寂しい道。
もうひとつの道は、心の安らぎに至る真理の道。
私の生徒であろうとするならば、世間の評価や名声など放っておいて、孤独の中に自分の内面を探求するように。
法句経75
1時間7分が本に残っています
29%

求めない

058
自分に与えられているものに幸せを見る
君の手に与えられたものがたとえどんなにわずかでも、君がそこに幸せを見つけるなら、「足るを知る」 充足感で心はきれいに澄んでいそのきれいな心の波は、口に見えない高次の生きものたちを喜ばせて惹きつけるだろう。
法句経366

ブッダの言葉 大涅槃経

君よ、私が死ぬのも自然なこと

君よ、私が死ぬのも自然なこと。
私も老い衰えて、ついに八十齢になった。
たとえば壊れかけた車が革バンドで補強して
かろうじて走っていられるように、
私の身体は禅定の力で補強して、
かろうじて保っているのみ。
私の死は、間近に迫っている。
ゆえに君は私に依存したりなんかせず、
自を灯とし、他の何にも依存せず突き進むように。
ただひたすら君の身体を見つめ、君の感覚を見つめ、君の心を見つめ、
心の法則を見つめながら。
私が死にゆくにあたって、君たちはこう嘆くかもしれない。
「われわれに先生はいなくなった。悲しいよぅ」と。

私が君たちに伝えてきた法則と生き方の指南が
私の死後、君たちの先生となるだろう。

長部経典『大般涅槃経

この世に永遠のものなど何ひとつなく
私はたしかに、もうすぐ死ぬ。
しかし君が悲しむことはない。嘆くこともない。
私はこれまで何度も説いてきた。
「どんな愛しい者からも、大好きな者からも、
百%の確率で、生きているうち、もしくは死ぬときに、
引き裂かれて別離し、すべては移ろいゆく」と。
いったん生まれたもの。存在するもの。つくられたもの。
それらはすべて壊れゆく定めにあり、
「壊れるな」という無理が通ることはありえない。
この世に永遠のものなど何ひとつなく、
私の命もまた永遠ならずして、もうすぐ私はそれをそっと手放す。
それはごくごく自然なこと。

長部経典『大般涅槃経

遺言
すべてのものは一瞬一瞬、刻一刻と壊れて、
少しずつ消滅してゆく。
だから、君はほんの一瞬もムダにすることなく、
ダラダラすることなく、精進するように。
これがまもなく死にゆく私が、君に先生として残す、
最期の遺言となるだろう。

長部経典『大般涅槃経

ブッダの言葉 1

「とにかく生きろ、とにかく楽しめ」 という DNA の命令に対して、「いや、私も必ず死ぬんだよ」という厳然たる真理をぶっかけてやれば、その浅ましい生存本能への解毒剤になる。 「ああ、たしかに自分も死ぬんだ」と心身に染み込むまでわからせてやれば、「生きるためにもっともっと、他人から奪ってでも快感を追い求めなさい」という命令の力を弱めてくれます。そうなってはじめて、私たちの心は馬車馬のように駆り立てられるのをやめて自由を取り戻す。そうしてようやく、落ち着きと安らぎの中にホッとひと息つくことがかなうのです。あるいは、ふつうの幸せを再発見することがかなうのです。この、死と向きあう草の末尾には、長部経典『大般涅槃経 (マハー・パリニッバーナスッタ)』より、ブッダが八十歳にして、まさに白分自身の死を迎えた際に残した語録を置きました。 その最後の最後の一本には、彼が弟子たちに残した遺言を訳して、幕引きとした次第です。ブッダ。本名をゴータマ・シッダールタ。 シャカ族の王子として生まれたことから釈迦とも釈尊とも呼ばれた人が、あくまでひとりの人間として、死ぬまでの間に残した言葉。
他方では、ここに超訳した『経集(スッタニパータ)』などの古い経典の中にもすでに、ブッダをむやみに神格化したり、あまりに偉大な「教祖」に祭りあげるような紋切り型の表現が何度も出てまいります。そういった表現は「仏教」という組織集団をつくり権威づけするための操作としてのちの弟子たちによって「偽造」されたものと見なして本書では取り上げなかったり、削り落としてあります。「けっして私に依存することなく、君自身の感覚をよりどころにするように」と弟子たちに説きつづけたブッダに対して誠実であろうとするなら、大切なことはかれを祭りあげることではなく、ひとえに私たちがかれのメッセージをどう使いこなせるか、ということに尽きるでしょう。崇拝する相手でも依存の対象でもなく、単に二千五百年前に生きて死んだ、ひと
りの教師の言葉として。「ブッダに会えばブッダを殺せ」とは、臨済禅師の言葉です。 ブッダを崇拝したくなるような己の弱さを殺せ、ということでしょう。
ギラギラと太陽が照りつける苛酷な環境のインド。ブッダが活躍したその国では、厳しい環境のもと、古代から、数学や化学の研究が発展したり、きわめて合理的な思考が育ったものでした。強い日差しのもと、カラッとした思考が生まれていた土壌に、ブッダのすこぶる合理的かつ心理学的アプローチも生また、と申すこともできるかもしれません。
それに比べて私たち日本人はいきおい、センチメンタルでじとっとした情感にとらわれるのを好みがちで、その気質はうっかりアレコレ思い悩んでしまう元凶ともなりましょう。この日本的な湿気こそ、古代インドの智慧の太陽によって、カラッと焼き尽くしてしまえば、ジメジメした心の湿度が下がって快適な風通しが得られることでしょう。それではこれから、こころを柔らかく開いて、「ブッダのことば」へと入ってまいりましょう。

小池龍之介

超訳 ブッダのことば 補遺

ブッダの生涯「超」ダイジェスト

ブッダが、まだ「目覚めた人(ブッダ)」と呼ばれる前、いまからおよそ2550年前ごろのこと。彼は、シャカ族の王スッドーダナとマーヤー妃のあいだに王子として生まれ、ゴータマ・シッダールタと名づけられました。 シャカ国は、コーサラ国とマガダ国という強国にはさまれた弱小国家だったと言われています。彼が生まれたとき、高名な仙人から「この子はやがて人類すべての王となるだろう」と予言された父王は、大喜びしたのでした。ブッダは生まれてすぐ二本足で歩いて「全世界で私がもっとも偉大だ」と言ったなどと原始仏典に記されていますけれども、ブッダを神格化しようとするこの手のフィクションは、忘れておきましょう。 まだ幼いブッダは父から大きな期待を受けて、幼少時から英才教育を受け、先生たち顔負けの才気を発揮しました。戦争国家の主となるべく武術や兵法もマスターしましたし、語学や宗教学なども抜群の成績でクリアしていました。 そうやって順風満帆な生活でスタートしたように見えるブッダの生涯は、しかしすでに一抹の陰りによって彩られていたのでした。かれは、生まれて数カ月も経たないうちに、母親マーヤー妃と死に別れていたのです。 マーヤー妃は産後の日だちが悪かったのでしょうか、息子を生んでそのまま病床にふせってしまい、そのままあえなく亡くなったのでした。義母のマハーパジャパティが母親代わりになって育ててくれはしたでしょう。しかしながら、自分の実の母親から温かく
抱きしめられたり見守ってもらえる機会を生まれてすぐに取り上げられたことは、かれの心に何かしらの欠落感の陰を落としたことでしょう。その代わりにかれが父からもらったのは、「偉大な王になるため強くなければならない」「賢くなければならない」というプレッシャーでした。幼いころから、愛情の代わりにプレッシャーばかりを与えられてエリートとして育ったかれの心には、ポッカリと欠落感の穴が開いていたのかもしれません。その影響があってかどうかはともかく、かれは優秀であると同時に、物思いにふけりがちなセンチメンタルな少年として成長していきました。いくつもの別荘を持つ父について季節ごとに快適なところで暮らし、いつも召し使いにかしずかれ、好きなコンサートや演劇はいつでも見たいときに見られる。そのうえ、気になる女の子がいるなら、簡単に望みどおりにしてしまえる。みんなが、ちやほやしてくれる。彼は十六歳のときに従姉妹のヤショーダラー姫と結婚してしまいますけれども、昔の権力者にありがちなことに、そのほかにも何人かのお妃をもらっていたようです。そうして、さまざまな「快感」を継続してインプットしつづける環境下にいたように憶測されます。そういった過剰な快楽に溺れる日々はしかし、幸せでしょうか。否。物思いにふけり、人の生きる意味などについてあれこれ考えがちだったかれにとっては、ありとあらゆる快楽を試してもすぐに飽きてしまい心がすさみ、空しさや寂しさばかりが募っていたのかもしれません。筆者が思いますには、ブッダは青少年期にありとあらゆる「欲望」を満たして快感の神経刺激をインプットすることで、「これで幸せになれるかどうか」を実験したとせるかもしれません。 「快感Aをインプット」→「しばらく興奮」→「やがて興奮がおさまりシラけてくる」「快感Bをインプット」 →...... 「快感Cを」→→→......「快感Zを」......。
こういったあくなき実験の結果として、かれにはわかってしまいました。「どうやら欲望を実現して快楽を与えつづけると、その快感は脳内に一瞬生まれるだけですぐに消え、空しくなって心がすさむらしい。これではハッピーだと言えない」
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彼は贅沢な生活を送る一方で、バラモン教という宗教の奥義を学んだり、ヨーガの瞑想にも取り組んでいたようで、すでに瞑想修行による精神集中はかれの得意とするところでした。恐らくはそれらが元となってやがて、かれの心を襲ってくる空しさや寂しさ、人間の生老病死という苦しみそのものを乗り越える道への探求が始まったのでした。折しもちょうど、妻のヤショーダラーが第一子ラーフラを生んだ年に、彼は一大決心をしました。もしかすると「この子を育てて家庭に埋没していくことになったなら、私の探求ができなくなるかも」というような(わがままな…)焦りがかれに生じたのかもしれません。そのとき、ブッダは二十九歳。ヤショーダラーと生まれたばかりのラーフラを置いて、シャカ国を捨てボロ衣をまとって旅に出る、出家修行生活を始めたのです。優秀な跡取りに期待している父に知られると反対されるに決まっていますから、こっそりと抜け出して修行生活に身を投じたのでした。当時のインドには、すでに非常に優れた瞑想方法があり、たくさんの人々が師匠に弟子入りして修行しており、それは、ある種の流行りのようなものでした。ブッダが最初に門を叩いたのは、カッサパという行者でした。しかしカッサパのもとで修行をするうちに、ブッダに疑問が生じました。「ん?どうやらカッサパ先生の修行は、瞑想を探求して、死後に天界に生まれ変わることを目的にしているらしい。天界の生命体に生まれ変わって快適さを味わいつづけても、私の心の欠落感は埋まらないだろう。天国に生きたいという欲求から、私は遠ざかろう」といったぐあいに。そうしてブッダは次に、高名な瞑想指導者だったアーララ・カーラマの門を叩きました。もともと瞑想で禅定するのが得意だったブッダは、あっさりと先生の禅定トレーニングを極めて、免許皆伝をもらいましたけれども、満足しませんでした。そこで、当時インドで最高レベルの禅定を教えていたウッダカ・ラーマプッタに弟子入りして修行を重ね、ついに最高レベルの精神統一をマスターしました。
しかしながら、目を閉じて集中力を究極まで高めて「無」の境地に入っても坐禅を解くと再び心のざわつき、迷い、怒り等がよみがえってくる。たしかに、強力な精神統一による一時的な心の安らぎは、かれを大きく成長させました。しかし、それでも、ブッダの目的、苦しみの生じる元凶を心から完全に取り除くことには、まだ何かが欠けていたのでした。その「何か」を求めて彼は先生のもとを去り、当時のインド修行界で流行していた「苦行」に取り組む日々を開始したのです。何日も断食する。何日も逆立ちしながら寝ないで瞑想する。水の中に沈んで息をとめたまま瞑想する、などなど。こうやってブッダは身体に不快感の刺激を与え続け、来る日も来る日も「苦しみ」が生じる仕組みを研究していた、ともせるかもしれません。いわば、自分自身の身体を実験台にして、不快感に対して心身がどう反応するかを観察していたとも申せましょう。
「何口も断食して苦しめたら身体はこういう反応をするらしい。心は『死にたくない」と恐れたりする反応をするらしい。「ふむふむ」などと。あるいは「身体を限界状態まで追い込めば、血圧はこんなふうになって呼吸はこんなふうに変化するらしい、ふむふむ」とか。かれの最初の二十九年が「快感」ばかりを与えつづけると心がどのようにすさんでゆくかの実験研究だったととらえますなら、その後六年にわたった「苦行」の時期は「不快感」ばかりを与えつづける実験への切り替えということになるでしょう。ただあいにく、いくら不快な神経刺激を心身に与えつづけたとしても、どんどん衰弱してゆくばかりでいっこうに「心が苦しまなくなる」ところへはたどりつけないのでした。いわば最初の二十九年にわたる研究が失敗に終わったのと同じく、次の六年の研究も失敗に終わり、ついにかれは骨と皮だけになるほど痩せ衰えて死の直前まで追いつめられました。そこまでしてようやく彼にわかったのは、欠落感を埋める「何か」は、苦行によっては見つからないらしい、ということでした。そうして餓死しかかっていたかれをスジャータという村娘が見かけて、「まあ、たいへんだわ。何か食べものを」と、ヨーグルトで炊いたお粥を差し入れてくれたのだと言われます。「苦行」ではダメだとわかったブッダは断食をやめることを決めて、お粥を一口ずつ口にして飲みくだし、除々に体力を回復したのでした。
苦行と断食をやめたブッダは、修行仲間たちから「いくじなしめ」と罵られ、仲間たちはかれを見捨てて去っていきました。けれども回復したかれは他人になんと言われようと気にすることはなく、菩提樹の木の下で穏やかに坐禅を始め、そのままずっと坐りつづけました。これまで鍛えてきた精神統一タイプの瞑想にふけることなく、あくまでもその瞑想の集中力を道具に使って、自分自身の心を見つめることをしました。禅定の強い集中状態で自分の心を見つめると、心の構造が無意識の奥まで見渡され、そこに隠れてうごめいている心の歪みがことごとく焼き尽くされてゆく。それとともに、心と身体を裏から操っている法則性を悟って解脱したゴータマ・シッダールタは「日覚めた人」になったのです。このとき、ブッダは三十五歳。しかしながら、彼自身が経典で告白しているように、しばらく迷いが生じました。「私が悟った内容は、世の中の欲望や怒りでいっぱいの人々には受け入れられないだろうし、とうてい理解されないだろう。ひとりでこのままずっとひっそり坐っていようかな」と。しばらく迷ったあげく、まずはものは試しにと、前にブッダを見捨てて去っていった五人の修行仲間に説法してみることに決めたかれに対して、かれら五人は冷淡な態度でした。かれらに向かってブッダは「これまで私はただの一度も、自分が悟ったなどと自称したことがなかったのを君たちも覚えているだろう。そんな私がいま、悟ったと自称するからには『何か
が起きたのだろう』という気がしないだろうか」と問いかけて、興味を呼び覚ますことに成功しました。「ならば、聞こう」と耳を傾けた五人に対してブッダは、苦しみを滅するには心の欠落感をことごとく焼き滅ぼせばよいと高らかに宣言します。そして、そのためにブッダが編み出した実践方法をかれらに教えたのです。こうしていつのまにか五人はブッダの弟子になってしまい、とくにそのうちの一人コンダンニャは、めきめきと修行の境地が高まりました。このように最初の五人を相手にしたときから、「先生」としてのブッダの人生が始まったと申せましょう。そして、かれらに伝わったからこそ、どうやら自分の悟りを理解できる人もいるらしい、という実感を得ることにもなったことでしょう。
これ以降、三十五歳から八十歳で亡くなるまでの四十五年のあいだ、ブッダはインド中をパワフルに徒歩でまわりながら、弟子を指導したり悩む人々の相談にのったりして過ごしました。ごく最初のうちは、少人数を相手にしたひっそりした活動だったようすですけれども、あるとき一気に、弟子が千人も増えるできごとがありました。ブッダの一行がウルヴェーラーという町にたどりついたときに、そこには、火を燃やす儀式をしながら瞑想修行をする密
教グループがいました。その指導者であったウルヴェーラー・カッサパが最初はブッダと張り合って論争をしかけたもののかえってブッダの人となりに感銘を受けて「弟子にしてください」ということになったのでした。カッサパには二人の弟がいて、三人兄弟あわせて千人の弟子をつれていたのですけれども、かれら兄弟とその弟子も、先生といっしょにブッダへ弟子入りすることになったと言われます。
こうして弟子の数が増えていったことが幸福だったかと申せば、必ずしもそうでもなかったように思われます。やがてブッダの名声を聞いてやってくる人々がどんどん増えるにつれて、弟子になる人の質も雑多になっていきました。最初期のメンバーは、ブッダの弟子になる前からすでにかなりの境地に達している人たちばかりでしたから、教え導くのも簡単だったようです。ところが、人数が千人、五千人、一万人とどんどん増えるなかには、「貧しくて生活できないからとりあえずブッダに弟子入りして食いつなごう」なんて人たちも入ってくる。かれらは、弟子同士で論争したりケンカをしたり町の人に迷惑をかけたりと、いろんな問題を起こしていたようです。最初はなんのルールも必要なく平和にまわっていたブッダと弟子たちのグループも、こうして大きくなるとしかたなくいろんな窮屈なルールを制定する必要が出てきたのです。それも厄介なことではありましたけれども、人数が膨れあがると他の宗教指導者たちから妬まれて迫害されることも増えていきました。特にブッダがミジンコもも鳥も王様も庶民も奴隷もまったく同じ生命体として平等に扱い、身分差別を完全否定していたことは反感を買うことになっただろうと思われます。当時も今もインドでは身分制がとても強く社会を支配しています。そのいちばん上のカーストだったバラモン教可祭の反感を買い、さまざまな悪口やイヤガラセを浴びることとなりました。こういった背景に思いを馳せてみますと、ブッダが弟子たちに「非難されても賞賛されても、それらに揺らがないように」と繰り返す言葉にも、ずっしりとした重みが感じられないでしょうか。かれはどんなに非難されても挑発にのることなく、穏やかに動じませんでした。そんな気品ある彼の態度を見て、かえってブッダの評判は高まったかもしれません。あるときブッダに感銘を受けたひとりのバラモン司祭がかれに「バラモン教をやめるので弟子にしてほしい」と頼んだことがあります。それに対するブッダの答えは、筆者には素晴しいものに映ります。「君はバラモン司祭として信者の人々に儀式をしてあげる宗教の仕事をしている。仕事を投げ出して私のところにきたら無責任だろう。君は今のまま仕事をつづけて、休みのときは私に瞑想を習いにくればいい」と。ここからは、ブッダに教わるために、他の宗教を否定する必要はないのだということが読みとれることでしょう。そして
ここでブッダは間接的に、自分の教えているのは宗教ではないということを言っているように思われます。ブッダの教えが「宗教」であるならば、それを実践するのに他の宗教は邪魔になります。なぜなら宗教とは「これのみが「正しい」と言い張るものなのですから。ところがかれが教えているのは心を操縦するための心理学とトレーニング・メソッド。それは宗教としての色彩を持たないために、バラモン教徒だろうとジャイナ教徒だろうとイスラム教徒だろうと、誰だって活用することができるのです。
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こうしてブッダのグループはさらにインド中に拡大がっていき、かれの教えを聞きにくる人の中には大国のマガダ国王ビンビサーラをはじめ政治的な大物などまで含まれるようになりました。 故郷、シャカ国の人々もブッダを慕って弟子入りするようになり始め、故郷においてきた息子ラーフラもまた、かれの弟子になりました。本書には取り上げませんでしたけれども、経典でブッダラーフラに向かって丁寧に丁寧に修行の仕方や心の保ちかたを教えてあげているくだりは、ほどよい距離を保ちつつ愛情にあふれた麗しいものです。ただしかれらにとっての苦難は、故郷シャカ国の滅亡という知らせとしてやってきました。隣の大国コーサラ国を怒らせて攻め込まれ、一気に滅亡させられた、と。自分の捨ててきた故郷が消滅したことに、かれらなりに感慨や責任を感じたかもしれません。もはや規定の枚数を越えて書いているので一挙に省略せざるを得ませんけれども、ブッダの残りの人生も多数の苦難で満ちていました。優秀な弟子だったデーヴァダッタが禅定を極めたことで思い上がり、ブッダに張り合ってグループを分裂させかけたこともありました。原始仏典では物語をつくりあげて、デーヴァダッタがブッダを殺そうとして岩を上から落としたなどとされているほどです。かれは大悪人のように記されていますけれども、実際はブッダ以上に厳格な生活をしていた修行者でした。彼はブッダに昔ながらの修行者のスタイルに戻ろうと提案したのを断られたため、自分を慕う仲間をつれてグループを出て行った、というのが歴史的事実のようです。ブッダがもっとも信頼していた二大弟子のサーリプッタモッガラーナが病で死んでしまい、ブッダを嘆かせることもあ
りました。「なんということだ、私が死んだらサーリプッタを後継者にしようと思っていたのに……」と。これら幾多の試練と困難を乗りこえながら、ついにブッダが八十歳で亡くなろうとするとき、従者のアーナンダをはじめ、まだ悟りを開いてない弟子たちは動揺して嘆き悲しみました。ブッダはかれら未熟な弟子たちに死の直前まで先生として、レッスンを続けました。胃腸を壊したのをいたわるように横たわり、最後の最後まで話しつづけました。「君たちが嘆くことはない。私がこうやって壊れてゆくように、すべてのものは一瞬一瞬、刻一刻と壊れて、少しずつ消滅してゆく。君たちもまた、壊れてゆく。だから、君たちはほんの一瞬もムダにすることなく精進するように」自分の死にざますらも教材にしてしまい、こうやって弟子たちを励ましてしまう言葉を聞いていると、心にジーンとするものを感じはしないでしょうか。こうしてあらゆる人々の先生となったブッダは、八十歳の生涯に幕を閉じたのでした。ブッダの生涯はここまでですけれども、その後、どのように現在私たちが知っているいわゆる「仏教」へとつながっていくのか。こちらも超ダイジェストでご説明しておきましょう。ブッダの死後、「やっと偉大すぎる先生から解放された、やれやれこれで自由になったよ」と喜ぶ弟子がいたのを見て、長老格のマハーカッサパはグループの引き締めをはかろうとしたようです。そこで悟りを開いた弟子のみで集まって、まずはブッダが決めていた生き方の「律」を再確認し、それを担当者が丸暗記するということをしました。その後、ブッダが長年にわたって話してきた 「経」をかれの従者だったアーナンダに思い出してもらいつつ、「先生はこう言ったよね」「うん、たしかにそう言った。間違いないね」などと確認をして、やっぱりそれを担当者が丸暗記したのです。しかしやがて時が経ってから、こうして決められたルールをめぐって論争が生じました。「細かいルールは時代の変化に合わせて柔軟に変えたほうがいい。だって、ブッダも死ぬ前に、細かいルールは変えなさいと言っていたじゃないか」「いや、ブッダが決めたルールを変えるなんて絶対にダメだよ」 などと。こうしてグループは革新派と保守派へと最初の分裂をしてしまい、「大衆部」(革新派)と「上座部」(保守派)という二つの部派へと分かれました。どちらのセクトも、亡きブッダを崇拝して神格化するかたちで仏教教団を形成していったようで、そのプロセスで、経典もいろいろとセクトごとに自分たちの都合に合わせて書き換えられているように推測されます。かれらはその後も新たな変化をくりかえしながら分裂して枝分かれし、それらのセクトごとに「〇〇宗」とか「〇〇派」といったようなものを時代や地域に合わせて生み出していったのです。とくに革新派のほうは時代や地域に合わせてさまざまなかたちで花を開かせました。日本では「大乗仏教」と呼ばれるセクトが中国を通じて聖徳太子の時代に日本に輸入されました。それ以来ずっと、日本独白の自然観や宗教観と溶けあって、さまざまな宗派が生み出されました。そこの地球を見わたしてみますと、国ごと、地域ごとに本当にさまざまな「仏教」が花開いています。 れらの うちの ど れか特定のセクトを賞賛するつもりは筆者にはありませんけれども、これだけ多様な花を開かせることができるだけの柔軟さとエネルギーが、ブッダという人の言葉には孕まれていたのだと考えますと、そこには感慨深いものがあると申せましょう。
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