モンテーニュもまた、何度でも読めるものの 作者だと 思います
2026年5月6日 モンテーニュ
061 自分の幸福は死後にようやくわかる
財産、肩書、褒賞など、わたしたちの生活のあらゆることに仮面が用意されている。だが、一つだけ仮面が用意されていないものがあることをきみは知っているだろうか?
それは、死だ。友達や家族の死ではなく、きみ自身の死だ。その場面でこそ、わたしたちの真価が問われる。わたしたちの人生がどれほどの幸福に恵まれていたかがわかるだろう。
しかし、わたしたちはそれを見ることはできない。わたしたちはすでに死んでいるからだ。
わたしの幸福も、きみの幸福も、つまるところ自分の死後にようやくわかる
でも、きみはそれを嘆くことはない。すでにきみも、死に向かってここまで生き続けてきたのだから。
このことを胸に、今日から覚悟を決めて最後まで生き切ろうじゃないか。
ページ83/213
098 苦労を引き受けて精神を鍛錬しよう
衣服や装身具は借りられる。しかし肉体は借りられない。わたしたち本来の力は、わたしたち自身の肉体からしか出てこない。だから、わたしたちは体を鍛錬するのだ。
肉体と同じように、精神も鍛えられる。
わたしたちの精神は苦労することで丈夫になっていく。まずは、目の前のその苦労を引き受けてみようじゃないか。
111 全体なんて見ることはできない
「全体を見るように」と言われることがある。
「全体がわかってようやく部分がわかる」とも教え込まれることがある。
それができる人は、どんな人だろうか?
わたしは、どのようなものでも全体を見て取ることなどできない。「小さなものだったら見られるだろう」というのは慢心だ。小さなものこそ、全体は捉
えがたい。わたしたちに全体を見るように要求する人たちも、やはり全体など見ていないだろう。
わたしたちは、全体の一部分にしか触れることはできない。
そこでわたしは、全体の一部分を取り出し、触れるだけでなく、舐めてみたり噛んでみたりする。あるいは、触れる角度を変えてみたりする。またあると
きは、その部分の骨を感じるくらいまで深く突いてみる。
判断とは、広く見ることではなく、深く見ることで可能になる。きみもやってみたらいい。
ページ 135/213
146 この世のものはすべてはかない
きみは、「楽しいことは長続きしない」と嘆いたことがあるだろうか?
あるいは、「この楽しさが永遠であってほしい」と祈ったことがあるだろうか?
そんなきみは、人生のはかなさというものに気づいているのだ。
しかし、はかなくないものがこの世にあるだろうか?花の盛りがはかないように、立派な業績もはかないものだ。教訓や知識にも賞味期限がある。
「人生のはかなさ」を言いかえれば、「人生とは不断の運動である」ということだ。わたしたちの行為は常に不完全で不規則だが、わたしたちは常に動き、変化し、成長し続ける。
これでいい。わたしは、はかなさだけを信じている。
わたしはわたしにふさわしく、きみはきみにふさわしく、はかなさに仕えようじゃないか。
ページ 172/13
147 どうしようもないことをどうにかしようとしないこと
暴風雨は突然、わたしたちを襲ってくる。
だが、それは自然のものなのだ。逃げてもしかたがない時もある。
そんな中、きみはどのように立っているだろうか?
強風に揺さぶられる木々は自分の重さで立ち続けるしかない。倒れる木もあれば倒れない木もある。
のだ。
わたしたちの精神も同じだ。
どうしようもないことをどうにかしようとしないことだ。
揺さぶられてもあたふたせず、自分自身の重さでしっかり立っていればいい
ページ 173213
165 死に方など気にするな
死に方を苦にしてもしかたない。さまざまな死に方があるのだ。
人それぞれの生き方に従って、その意味も変わってくるだろう。同じ死に方もある。
でも、わたしときみの死は違うものなのだ。
衰弱してい 死がある。断崖から落ちて死ぬことも、押し潰されて死ぬこと、銃で撃たれて死ぬこともあれば、剣で刺されて死ぬこともある。
大事なことは、死ぬということで、死に方ではない。
死んでからのことを苦にする人もいる。
自分が死んでからのことなど「苦」になるはずはない。死んでからのことはあきらめてしまうのが
よい。
大事なことは、死んでからのことではなく、今、生きているということだ。
わたしは、わたしの死が、わたしの生を裏切らないようにしてやりたい。だからわたしは今を精一杯、生きる。
ページ 192/213
170 死は大事な任務だ
死ぬこともまた、わたしたちに与え れた任務なのだ。わたしたちにとって、最も大事な任務だ。
世の中にはさまざまな任務がある。それらの任務遂行のために、わたしたちは何度も予行演習をして、本番に備える。
でも、死ぬという任務を果たすための予行演習なんて、できるはずがない。
なぜなら、死ぬことは一度しかできないからだ。
そうなのだ。死においては、だれもがみんな初心者なのだ。
だが、死に対してわたしたちは無力なのかというとそうではない。
こう考えてみたらどうだろう。
わたしたちにとって、死は有用なものだ。
だから、死を認めてしまおうじゃないか。すると、死と一体化することはできなくても、死への道筋を行き来することはできるようになるだろう。
174 死ぬことで不幸になった者は一人もいない
生きることは幸福だ。同じように、死ぬこともまた一つの幸福なのだ。
もし、自然がわたしたちに「死」を持たせなかったら、どうなってしまうだ
ろう?
きっと、自然を呪ったことだろう。「なぜ、死なせてくれないのか」と。
さて、これまでもこれからも、死ぬことで不幸になった者は一人もいない。
いるとすれば、後に残された者たちだろう。でも、わたしに関しては、わたしに関しては、わたしが死ぬことで不幸になる人は、死後にもだれもいないだろう。
どのような一生だろうと、その値打ちに大小の差はない。きみの一生も、わたしの一生も、同じように「生きて死んだ」だけ。わたしたちは、生きること
から逃げることも、死ぬことを避けることもできないからだ。
古代ギリシアのある哲学者は、「なぜ死なないのか」と尋ねられたとき、こう答えたそうだ。
「生きようが死のうが、どちらでもよいことだからだ」
ページ201/13
