お早うございます。休日らしく、

ゆっくり起きました。

今日はまず、このお話しを朝イチ。

倭タケルの子、仲哀天皇、その、妃神功皇后が、半島征伐(史実ではこの表現ですが、実質的には侵略との私見です。)に向かいます。その途中、産気付き、途上の海岸の小島で産み、そのまま、征伐に出て、小島に帰って来ると、まだ、その子は生きていた。後に応神天皇となられます。前期しましたが、その小島は、私の母の実家の村の海岸の小島で、生島と呼ばれています。赤子が生きていたからだと思います。しかし、子どもの頃から、その島を見たり、上がったり、周辺を泳いだり、潜ったりしていますが、満潮時には、島は潮の下に完全に沈み、赤ちゃんが生きていられる筈はありません。

で仮説1、かつては、地盤が高く、島は潮にのまれることは無かった。

仮説2、島が潮にのまれることがないにしても、神功皇后が帰って来るまでには少なくとも数週間はかかった筈です。だから、その間、村人が御世話をした、事実村の名前は産湯と言いますし、産湯を作った水の出どころ、七つ井戸という、井戸が現存しています。

しかし、神功皇后の戦に向かう経路が私には?です。多分、奈良県桜井市付近から、和歌山県に行き、北の半島に向かう?ずっと南西に行き、子を産み、ずっと北の闘いに赴き、戻った?水路?無理です。紀伊半島から北の半島に向かうには、瀬戸内海を抜け、下関から、日本海にでるしかない。???の連続ですが、私は、その村の寺で、祖母と産婆さんに寄り、母から、とり上げられて、産まれました。