精神主義 再三

精神主義 再三
↓が精神主義の発展に影響大と考えました。

清沢満之
尾張藩士、徳永永則の子として、尾張国名古屋(現在の愛知県名古屋市)に生まれる。愛知英語学校(後の愛知県第一中学校)と、愛知医学校(後の名古屋大学医学部)に入るも、いずれも廃校になり、その方面の道を断念した。彼は優秀で前者の愛知英語学校では通訳として教授のイギリス人が演説に出かけるときは通訳をしたという。浄土真宗本願寺派の名古屋別院にある医学校はドイツ語を習っただけで廃校になっている。[1]

1878年明治11年)2月、得度して真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学した。当時は非常に活発で走ったり相撲をしたりしている[2]。その留学生として東京大学予備門に補欠募集があるのを知り、僅かの準備期間でトップで入学した。1887年(明治20年)に東京大学文学部哲学科を首席で卒業。同級生には後に文部大臣になる岡田良平、梅本順三郎が、一年後輩に、上田万年沢柳政太郎がいた。学生時代に、井上円了らと「哲学会」を始め、1887年(明治20年)2月に『哲学会雑誌』を創刊した際には編集に当たる。同年、井上円了による哲学館(現、東洋大学)の創設時には、評議員となり、また心理学及び哲学史を担当する講師となる。大学院では、宗教哲学を専攻。しかし、1888年明治21年)7月には、真宗大谷派の要請で、当時、同派が経営を委嘱されていた京都府尋常中学校(現在の大谷中学高等学校の前身で現在の洛北高校を併設)の初代校長を務め、高倉大学寮にも出講する一方、清沢やす子と結婚し、清沢姓になっている。1888年明治21年)には愛知県碧海郡大浜村(現・碧南市)の西方寺の副住職となった。しかし大学院をやめても、彼は研究をやめたわけではなかった。[3]
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