おいしい仕事、満床 貝塚木島

私は、高松での出向を終え、何処に行きたい?頑張ったな!と先輩の人事管理先生。お前はな頑張った辛抱もしただから、行きたいところで働いたらえーで。はい。私は育った近く、木島保育園でしたし、此処で、でも、先生?私の救急医学の研修は?お前やったら、せんでも出来る!要らん要らん!そうかな? 赴任した。確かに、かつて住んで居たところ。でも精神科医療レベルは?最低。嫌やなぁ!でも、結婚もした、息子(002ですね。)も出来た。生きる為には汚れ仕事もしなければならない。私は、働いた。色々事故も起こしたので、車の保険はブラックリスト、入れない。ナナハンで通勤を続けた。6年半。冬は冷たかった。ヘルメットのシールド閉めても曇るから、全開で。結局、私は、シニアマネージャーになった、院長兼理事長から、任命された。シニアマネージャー?まぁまぁ部長やね。今までは課長。でもな、先生は副院長と思って働いてくれへん?はい。先輩の先生も居ますが?いーや、先生は副院長として働いたらえーねん!はい。では給与?おんなじやな。はい。 しかし、私は、非人道的な職場も出来る限り人道的かつ、治療成績もある病院になる様に、働いた。看護者にもその気持ちは伝わった様だった。私は思う存分働いた。エースだった。そこで、精神保健指定医も後の博士号の元になるDataも得た。嫌だったけど、社会復帰に関するData。後に思わぬ考察には至ったが、思春期班とはかけ離れたもの、何で? まぁまぁ、その後、珍しい事に、卒後、10年を経て、大学の助手に戻されるまで、働いた。高松から貝塚まで、私は、教科書も読み、実践し、他の精神医学書物を読み、精神医学雑誌も読み勉強は続けた。(だからこそ、うつ病の、半分以上に初期Sc.症状があるとの気付き、今の技に至ったのですよね。) 今では考えられませんが当時は識字能力はあった?